【富田林市】巨石、大化の改新、馬伝承、老木。時代の流れを見続けてきた「腰神神社」
2026年は午年にあたり、物事が動きやすい年といわれています。午年は十二支の真ん中に位置し、流れの切り替わりや節目の年と捉えられることもあるようです。また、暦だけでなく、馬は神の使いともされ、各地で祀られることも多いですね。

市内にも馬伝承が残る神社があるのはご存じでしょうか。嬉地区にある腰神神社には、楠木正成が腰の立たなくなった愛馬のために祈願したところ、たちまち治ったという話が伝わっています。名前の由来にもなっていて、現在でも腰痛などの祈願に訪れる人も少なくないとか。

腰は、「腰を据える」「腰を折る」などの言葉にも残るように、古来より体の中心として要とされてきた経緯があります。この神社もその腰のように、時代が移り変わってもなお、重要な要所だったことが想像されます。

話は神社の創始時代、乙巳の変(645)が起こった、いわゆる大化の改新の頃まで遡ります。誰しも聞いたことのある時代の転換期に、紀伊国から箕島宿禰という人物が移り住みました。宿禰とは姓(かばね)のことであり、役職のような位を表すもので、上位にあたる位です。その箕島宿禰は、大和の桜井(現:桜井市)の豪族の娘・玉藻姫を側室にし、河州(河内)の地で文武を広めたことにより、神社のご祭神として祀られています。
詳細な経緯は語られていませんが、紀伊国の宿禰がわざわざ紀伊見峠を越えて、三輪山の麓にあたる桜井の娘を娶り、この地に移り住んだこと。とても重要な拠点だったのではないかと思えてなりません。

時代は進み、元弘年間(14世紀前半)、鎌倉時代末期から南北朝時代へと向かう動乱期。現・腰神神社の背後にそびえる金胎寺山に、楠木正成によって山城が築かれました。山城は天然の要塞であり、地政学的にも重要拠点に構えることが通説です。
その後、正成が鎌倉幕府の討伐に向かう途中に、前述のとおり、愛馬・千早丸の腰が立たなくなります。出陣しないわけにはいかない正成は、この地に祀られていたご神体の巨石に祈願したところ、愛馬の腰が治り、無事に幕府討伐に向かったとされています。立地だけでなく、まさに肝心要の局面においても、この地が重要な役割を担っていたことがうかがえます。

歴史深く、由緒ある腰神神社は、地域の人たちに見守られながら、現在も金胎寺山の麓に鎮座しています。絵馬堂と呼ばれる拝殿の背後には、巨石の一部がのぞいています。山根の大盤石として、人の営みをはるかに超える時間を、この地で受け止めてきたかのように、今も静かに佇んでいます。

腰神神社には、創建期にこの地と関わったと伝えられる箕島宿禰をはじめ、水にまつわる信仰と結びつく八大龍王、道ひらきの神として知られる猿田彦尊、そしてその猿田彦尊をこの地の守護神として祀った国光大明神が祀られています。

国光大明神は、土地の恵みや暮らしを見守る存在として信仰され、稲荷信仰と重なる性格を持つ神とされています。

境内には樹齢700年ともいわれる藤の老木もあります。その生命力たるや、見る人を圧巻させると同時に、この腰神神社の歴史の深さを、静かに物語る存在となっています。例年、4月中旬~5月上旬にかけて、藤色の花が咲き乱れ、見応え十分な景観が眺められるとのこと。

1300年以上もの間、時代ごとの節目を受け止めてきた場所として、腰神神社は今もこの地にあり続けています。
腰神神社はこちら↓





