【河内長野市】秀吉が改築? キリシタン大名が関わった可能性も。戦国の山城「烏帽子形城」の真相に近づく“講演会&現地見学会”を取材しました。≪講演会編≫

2012年に国指定史跡となった烏帽子形城跡。大阪府内の中核城郭では4件目で、千早城跡・赤坂城跡・楠木城跡が指定された昭和9年(1934)から、78年ぶりのことでした。なぜ、ここまで長い時間がかかったのでしょうか。
文献や絵図が多く残る城に比べ、烏帽子形城を含む「山城」は、研究や調査に時間がかかる傾向があります。近年になってようやく、その姿が少しずつ明らかになってきました。城には、大阪城のように平地に築かれた「平城」と、山の地形を活かして築かれた「山城」があります。烏帽子形城は、この「山城」にあたり、自然の地形そのものが防御の役割を果たしていました。
これまでの調査の積み重ねを踏まえ、烏帽子形城をもっと広く知ってもらうため、2025年12月14日(日)に「十六世紀の烏帽子形城」をテーマにした講演会と現地見学会が行われました。締め切り前に満席となった大人気のイベントです。

※提供:河内長野市日本遺産推進協議会事務局様
今回の講師となる京都先端科学大学特任准教授・中西裕樹氏は、京都の地は河内に比べて文献が残っているため、当時の様子を知れる手がかりが多く存在するといいます。講演会では京都の山城を参考にしながら、烏帽子形城の役割をひも解いていきます。
京都のあの大文字焼きで知られる大文字山の山頂には、かつて如意ヶ嶽城という山城がありました。この峠を越えると滋賀県大津市(近江)へと抜けるため、戦国時代には京都をめぐる攻防の要所だったといいます。一度敗れた側が近江へ退く際にも、再び京都をめざす際にも通る場所であり、如意ヶ嶽城は重要な拠点として機能していました。

永禄年間、如意ヶ嶽城は京都への出入りを押さえる足がかりの拠点として重要な役割を担っていたと考えられています。城内の「横堀」は、ほかの山城と比べて発達しており、防御を重視した構造が特徴です。如意ヶ嶽城に関する記録は、永禄元年(1558)まで確認されています。次に、この年代をヒントに、大きな「横堀」の特徴が似ている烏帽子形城を、南河内の歴史から整理していきます。

同年代の動乱期、烏帽子形城にあたると考えられる城名は、いくつかの文献に登場します。文正元年(1466)の『経覚私要鈔』には、南河内の武家である畠山氏の家督争いを背景にした合戦の中で、「押子形城」が二夜二日にわたって攻められたことが記されています。一方、大永4年(1524)の『祐維記』には、当時の畠山氏の軍事動向を伝える記述の中に、「エホシカタ」と呼ばれる場所が登場します。

※提供:中西裕樹様
これらの史料の読み取りに加え、中西氏が作成した河内国の城主変遷を示す年表とあわせて考えると、畠山氏が南河内各地の城を連動させていたことが見えてきます。押子形城やエホシカタと呼ばれた場所は、その軍事行動の中で重要な拠点だったと考えられます。
また、南河内の山城は、街道に沿うように連なる配置が特徴です。畠山氏の家督争いの中で、高屋城(羽曳野市)奪還を軸に河内と紀伊を行き来する軍事行動が続いたことが、こうした配置につながったと考えられます。地理的な視点でも同様の見解です。

時は進み、天正3年(1575)に高屋城を落した織田信長が、翌年側近らを派遣して、金剛寺が打ち出した徳政に従うよう命じたとのこと。また、あの本能寺の変が起こった年の天正10年(1582)には、烏帽子形城の勢力が紀州方面へ派遣されたといいます。
天正12年の羽柴秀吉の紀州攻めに際しては、河内国の高屋城の背後にあたる「ゑほしがた(烏帽子形城)」という古城が、軍事拠点として改修され、その整備は岸和田城主・中村一氏によって行われたことが、『宇野主水日記』に記されています。この時代でも、烏帽子形城およびその周辺が重要拠点だったことが見えてきます。

現地見学会では城の構造もみどころです。秀吉が築城した大阪城の虎口(こぐち)の特徴が、烏帽子形城にも見られるなら、現存する烏帽子形城跡はこの時代のまま残っている可能性があります。虎口とは、城の出入り口のことで、まっすぐ侵入できないよう途中を曲げたり狭めたり意図的に設計されています。また、横堀の大きさについても計画性があると考えられ、その規模から秀吉が手がけたのではないかと推察します。そのあたりを現地でじっくり観察しにいきます。

現地へ向かう道中は、城周辺の長野や三日市といった町場にも目を向けてみましょう。畿内のキリシタンは、都市や町場を支配する領主との関係が深く、農村や山中ではなく、城下や近隣の町場に暮らしていたと考えられています。天正3年(1575)に宣教師のフロイスが烏帽子形城を訪れた際、3人の領主のうち2人がキリシタンであったと記されています。また、城の周辺には300人ほどの信者がいたとも伝えられています。町場が残る烏帽子形城の周辺にも、そうした人びとが暮らしていた可能性がうかがえます。
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