【河内長野市】秀吉が改築? キリシタン大名が関わった可能性も。戦国の山城「烏帽子形城」の真相に近づく“講演会&現地見学会”を取材しました。≪現地見学会編≫

十六世紀の烏帽子形城 講演会&現地見学会
2012年に国指定史跡となった烏帽子形城跡。大阪府内の中核城郭では4件目で、千早城跡・赤坂城跡・楠木城跡が指定 …

十六世紀の烏帽子形城 講演会&現地見学会

午前中の講演会が終わり、午後からは烏帽子形城跡へ参加者と向かいます。講演会で講師をされた京都先端科学大学特任准教授・中西裕樹氏いわく、山城を見学するには、登山並みで険しい道を行くことがほとんど。そんな山城のなかでも、烏帽子形城跡は駅から徒歩で向かえ、城跡自体も烏帽子里山保全クラブの方々が藪などを整備してくれているおかげで地形が見やすく、絶好の環境だといいます。

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講演会の会場があった河内長野駅から徒歩20~25分程度で、城跡の入口に着きます。今も残る町場の中を通り、散策がてら向かうにはちょうどよい距離です。長野神社の手前で右に曲がり、長野町内の高野街道に沿って進んでいきます。河内長野市教育委員会の資料によると、このあたりは平安時代に「木屋堂」と呼ばれ、荘園である「長野庄」の中核とされていた場所です。材木の集積場や町場が存在していたと考えられています。

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そのことから、長野神社はかつて「木屋堂宮」と呼ばれていたとのこと。

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そのまま長野町を抜け、石川に架けられた旧西條橋を渡って喜多町へ。

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途中、大日寺に寄りながら、烏帽子形八幡神社まで歩きます。これも資料によると、大日寺遺跡では中世の建物跡や墓などが見つかっていて、長野庄の開発領主・三善一族の墓地という説もあるとか。また、この近辺には烏帽子形城の城主の館があった可能性も指摘されているそうです。講演会で聞いたキリシタンの信者たちも、この辺りで生活していたのでしょうか。

階段を上ると、烏帽子形八幡神社の鳥居が見えてきます。

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本殿が国指定重要文化財に指定されていて、荘厳な佇まいです。創立年代は不明ですが、文明12年(1480)に「石川八郎左衛門尉」によって建立されたと棟札の墨書きで確認できるそうです。資料には、この石川八郎は、源義家の子・義時の子孫である石川源氏の一族だと考えられており、近隣の古い文献には石川姓の人物が度々散見されることから、本殿建立前後には、石川を名乗る一族の活動がうかがえる、という内容が書かれていました。

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二礼二拍手一礼でお参りをして、神社を後にします。一度敷地を抜け、烏帽子形公園沿いの南側ルートを通って再度公園内に入りました。

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整備された道を進むと、開けた場所に小高い丘が見えてきます。

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ここが烏帽子形城跡の入口があるわんぱく広場です。ほかにも何か所か入口があるようですが、初めての方はここから登るほうが、道順がわかりやすそうです。

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いよいよ烏帽子形城跡です。その前にまず、山城の基本構造についてお伝えします。

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上の写真のように、一番高い位置に「曲輪(くるわ)」といわれる平地に陣地が設けられ、その周りに深い「横堀」が彫られます。横堀の周りには、土を積み上げた堤防状の「土塁」が作られ、高低差で侵入しづらい設計となっています。この構造を現地で体感していきます。

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では、烏帽子形城跡へと入っていきます。季節柄ふかふかの落ち葉が道を覆っていましたが、視線を遮るような草木はなく、きれいに保全されている印象です。

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歩いていると、道のように見える横堀が現れます。道の端が反って湾曲しているのは、人工的に造られた証拠だそうです。自然ではこういう掘ったような形にはならないと、中西さんが教えてくれました。

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なるほどと納得しながら進むと、横堀内に作られた堀内障壁が見られるゾーンへ。堀内障壁とは、高低差を利用して、敵の移動を妨げる防御のしくみのことです。見に行こうとしたその手前に、他と比べて鋭角に見えるコーナー(上の写真右側)があります。曲がる際に一旦からだを外に開いて曲がらないといけない角度で、これが講演会で聞いたあの虎口ではないかということです。

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堀内障壁は上から見ると、すっぽり人が隠れる深さです。落ち葉が溜まっているため、実際はもう少し深く2メートルほどではないかと職員の方が教えてくれました。横幅も広くかなりの規模とのこと。通常、山城には一時的に滞在する場合が多く、あくまで平城奪還のための拠点なので、しっかり人の手を加えた構造にすることは少ないそう。自然の地形を生かすのも手間をかけないため。人工的に造られたような箇所が見受けられるのは、秀吉による改築した状態のまま残っているからかもしれません。

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土手のように見える斜面も、本来平城であれば石垣部分だよ、と中西さん。自然に溶け込んでいますが、かなりの急斜面だとわかります。こういう気づきが得られるのも山城のおもしろさです。

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どんどん進んでいくと、頂上手前あたりではっきりと土塁が確認できる場所がありました。

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その後すぐ、城跡の中心部にあたる曲輪に到着しました。

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説明板によると、ここには発掘調査で見つかった2棟の建物の礎石が再現されています。

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礎石は、建物の柱が腐食したり沈下を抑えたりする役目があります。周辺で出土した瓦の多さから、おそらく瓦葺であったと考えられ、中世の山城に瓦葺の礎石建物は大変珍しいとのこと。通常、大坂城や姫路城などの近世の城に見られる構造のため、烏帽子形城はその時代の境の過渡期の姿をしていたといえるそうです。

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標高181.65メートルの山頂からは、河内平野が一望できます。日によってはあべのハルカスが見えることも。その眺望の良さから、かつては、富田林市の龍泉寺城と金胎寺城、八尾市の高安城、羽曳野市の高屋城、東大阪市の若江城などを、ここから眺めていたのでしょう。

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ここで現地見学会は終わります。最後に、烏帽子形八幡神社の伝承によると、楠木氏が南北朝時代に神社を城の鎮護にしたと伝わったことが、烏帽子形城が楠木七城のひとつと知られている所以なのですが、その後の元禄年間に記された神社の社記には楠木氏に関する記載は見られないとのこと。また、江戸時代には、喜多村の一部と隣村の上田村を、楠木氏の末裔といわれる旗本・甲斐庄氏が治めていたことがわかっていると、教育委員会の方に伺いました。

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講演で聞いた山城の特徴を思い出しながら歩くと、現地でその輪郭がはっきりと見えてきました。地域に城跡があることは知っていても、実際にその場所を歩き、地形を見て考える機会は多くありません。今回の講演会と現地見学会は、身近にある歴史を、自分の足で確かめるきっかけにもなりました。

烏帽子形城跡はこちら↓

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